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個人の価値

価値について考えてみた。

どんな人でも何かによって自分の価値を決めている。
立派だと思う人も、自分はだめだと思う人も、それぞれ何かの基準を持っている。その基準は社会の評価だろうか。

  しかし、仕事に成功したときは素晴らしく評価され、失敗したときは駄目なのだろうか。

  「プラス思考をしょう」と言っても、本当に落ち込んだときには、その考え自体がかえってストレスになるだろう。

  死に逝くときには、なお現実を思い知らされる。地位や名誉やお金がいくらあっても命は買えない。見舞いに来る人もだんだんと少なくなり、元気なときは社会的に周囲からもてはやされた人も、「ただの人」となってしまう。ただの人という文言も適切ではないかもしれないが、社会を基準に置くとこのような表現もあるのではないかということだ。

  終末期、残されたわずかな時間にふと去来する想い。「自分は何だったのだろうか」「果たして、自分を生きたのだろうか。ただ、社会的な評価を求めて生きてきただけなのではないだろうか」

  社会の評価はときに重くのしかかる。常に前進拡大していなければ評価されることはない。一度失敗すれば、今までの成果は帳消し。それを思うと不安になるのではないか。

  社会の評価で自分の価値を決めていると、歳をとれば価値が低下する。会社員なら定年がくる。自分の会社であっても、いずれは誰かに譲らなければならない。母親としての役割も、子供達は巣立っていきやがてその役割もなくなる。社会的な価値はだんだん少なくなってくる。

  まして寝たきりにもなると、社会の評価を基準におけばマイナスになるということになる。心身相関が悪化し身体がますます動かなくなる。
 
 
このように、社会を原点として自分の価値を決めていると、不安と不満にさいなまれ社会との関係性、地域との関係性、親族との関係性にも影響を及ぼし悪循環となってくることも考えられるのではないだろうか。

  社会適応を目指すわけだから、極端に言えば自分を抑えたり、捨てなければならない。

  「本当の自分」を生きたいというのが本心であるのなら、本当の原点、本当の自分の価値の基準を見いださなくてはならない。

ただ、社会適応を目指すか否かに関わらず、自分らしい生き方がたまたま社会の基準(ニーズ)に合致した場合を除いては、社会性(社会に基準を置く考え方)と経済レベルは相関関係にあるのではないかと思う。

高齢者の尊厳、自分らしい生き方をと提唱しなければならないほど社会が異質になっている。





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